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沢庵 宗彭 ( たくあん そうほう )
1573〜1645 (天正元年〜正保2年) 沢庵和尚の頂相画

沢庵和尚は、天正元年(1573)12月1日出石城下(現:兵庫県豊岡市出石町)生まれです。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。


8歳の時、山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡、父は浪人となりました。10歳の時、出石浄土宗の唱念寺(浄土宗)で出家し春翁と称しました。


14歳の時、出石藩主菩提寺・宗鏡寺(禅宗)に移り、希先西堂の弟子になり名を秀喜と改めました。


19歳(1591)の時、希先が死去したので、翌文禄元年(20歳)に時の出石藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、大徳寺との関係が生まれました。


22歳のとき董甫が京都へ帰るのに従って、大徳寺塔頭三玄院に入り、そこで春屋宗園について、宗彭(そうほう)と名を改めました。


28歳の時、董甫が死去したのを機に京都を去り、堺に出て、大安寺に寓居していた建仁寺派の学僧文西西堂について、儒学、詩歌を学びました。


29歳の時、文西が死去し、同じ堺の南宗寺陽春庵にいた一凍紹滴(いっとうじょうてき)の許に入り、33歳(1604)の時、一凍の印可を受け沢庵の号を授かりました。


一凍の印可を受け禅僧として一家をなした沢庵は、慶長12年(35歳)大徳寺首座に迎えられ、塔頭徳禅寺に住し、堺の南宗寺にも住持しました。


慶長14年(1609) 勅令によって大徳寺の第154世となりましたが、出世開堂3日で、「由来吾是水雲身」として退山してしまいました。


元和6年(1620)出石城主の小出吉英が、宗鏡寺(すきょうじ:現在は別名沢庵寺)を再興したので、元和6年(48歳)宗鏡寺内の後山に投淵軒(とうえんけん)という庵を結び、そこで一衣一鉢の生活を始めました。


寛永元年(1624)沢庵は、帰但するたびに城崎温泉に座湯し、極楽寺を宿としたと考えられています。この極楽寺は、室町時代初期に出石の宗鏡寺も建立した金山明昶(めいちょう)禅師が開き、その後荒廃していたものを、豊岡藩主、杉原伯耆守(ほうきのかみ)により、寺領の寄進を受け、沢庵によって再興されました。


寛永4年(1627)紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺は、将軍ではなく天皇から綸旨を賜り入寺することになっており、また、黄衣ではなく紫衣を着用するという違いがありました。幕府は、大徳・妙心両寺への入院出世が乱れているとして、「勅許紫衣法度」を作って法度の励行を命じ、大徳寺・妙心寺以下京都の9ヶ寺で紫衣を勅許される者は、幕府に申請することを定めました。そして元和以降法度に授けられた勅許の紫衣は、無効であることを宣言しました。大徳寺の危急存亡の事件に際し上洛した沢庵は、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、幕府に対して3,000字を超す長文の抗弁書(こうべんしょ)を自らしたためたといわれてます。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。


寛永9年(60歳)将軍秀忠の死去による大赦令(たいしゃれい)で、沢庵は流罪を許され、江戸に帰りました。しばらく草庵広徳寺に入っていましたが、幕府の許しを得て、大徳寺に帰りました。その後、天海、柳生宗矩らの強い要請を受けて、将軍家光に謁見し、幕府は品川に万松山東海寺を建ててその開山に沢庵を迎えました。最後の言葉「夢」を暖簾に!


その後、郷里に帰郷した沢庵は、家光の招きによって再び江戸に出、正保2年(1645)12月、沢庵はこの万松山東海寺で没しました。時に73歳でした。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったと伝えられています。
営業時間 11:00から22:00/定休日 なし

668-0221 兵庫県豊岡市出石町町分字石呂148-5
TEL・FAX 0796-52-7888 店主:秋庭士郎
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